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名古屋見聞録:7

橋の名前

名古屋市内を流れる川に「堀川」というのがある。昔は行き交う筏船をはじめ
物資を運ぶ船舶でたいそう賑やかだったというが今ではその面影は残っていない。
そもそも名古屋の街は戦国時代の終わりに徳川氏によってきわめて計画的に
作られた街である。それまでの尾張の中心だった清洲の街を全くといっていい程
綺麗さっぱり消し去って(城はもちろん神社仏閣から橋・門に至まで移築した)
織田・豊臣時代の終焉と徳川の時代の到来を知らしめるために作られた街といってもいい。
名古屋城と城下町の普請もそれは大事業であったのだが、
それに勝るとも劣らないのが堀川の開削であった。

まず名古屋の街の北を流れる矢田川から水を取り込み、それを約3km程の水路を作って
名古屋城の堀に流し込む。また、城から南にまっすぐ堀川を掘り熱田の港で海に注がせる。
この人工の川によって名古屋城辺りの水運を確保した総延長10km近い運河の工事。
これを2年程で完成させるという突貫工事。担当は秀吉の古参武将であった福島正則だった。
この大事業により名古屋の街の中心に水の潤いが生まれた。

日々変化する街「名古屋」にあって唯一変わらないもの、それが380年前から
ずっと流れている「堀川」だ。そしてもうひとつ変わらなかったもの、
それがそこに架かる橋の名前だ。昭和40年代頃、名古屋の中心街を中心にして
江戸時代からずっと続いていたそれまでの町名を誰が何のためにそうしたのか
判らないままに総べて変更していった。例えば旧和泉町・上園町・車町・木挽町・材木町・
西菅原町・西万町・伏見町・皆戸町・南外堀町
を合わせて丸の内1丁目とした。
それぞれの町が培ってきたそれぞれの町の思い出もジューサーにかけられた
ミックスジュースのようにただただ混ざって飲めなくはないが特長のないものになってしまった。

そのようにしてできた新しい町名は城西・丸の内・名駅・栄・名駅南・大須・松原・正木
というように箸にも棒にも掛からない味気ないもの。しかし地図を見ていて判ったんだが
町名は味気ないものに変わってしまったがそこに架かる橋の名前は何故か変更しなかった。
例えば堀川では筋違橋・鷹匠橋・大幸橋・小塩橋というように江戸時代からの名前が
そのまま使われているし、新堀川では浮島橋・日ノ出橋・法螺貝橋・鶉橋という名前の橋がある。
しかしココまでくると「何でホラガイなんだろう?」『この近くにウズラでも飼っていたのかな?』
といらぬことを考えてしまって返ってよくないが。
名古屋見聞録:7_c0168955_7221623.jpg
写真1:つい最近撮った写真とは思えないような
私の子供の頃に見た堀川が今もこうして静かに流れている。
by tomhana193 | 2010-03-03 16:09


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