∴鶴舞図書館で何気なく借りてきた本に『名古屋城下図』という本がある。本といっても江戸時代末期に製作された地図で、原版は名古屋市蓬左文庫に所蔵されているという。どういう訳か昭和57年にB5版40Pの本に復刻され、見ることができたという訳だ。この地図、ハッキリとはしないがどうも尾張藩の家臣の家に何故か保存してあったみたいだ。ある日、HPでこの名古屋城下図を調べていてたら思わぬHPに出会った。 ∴タイトルを『残照の徳川宗春』といい、経緯は判らないが、江戸時代の名古屋を扱ったもので第一話『宗春生母の“実家”を見つけた』では「宗春の父は尾張3代藩主綱誠だが、では生母の宣揚院(梅津の方)とはどんな人物だったのか。尾張藩士の系譜を記した『士林ソカイ』続編で調べてみると、父親はその名を三浦太次兵衛嘉重といい、元禄8年5月に召し出されて尾張藩家老格の成瀬家より200石を賜っている。宗春の生まれたのが翌9年10月であったから、父の仕官に綱誠側室となった宣揚院が一役買っていたことはまず間違いなかろう。この三浦一家は当時、名古屋のどこに住んでいたのか。享保17年当時の住宅地図「名古屋図」を開いて見たが、藩士名が米粒にも満たない文字でぎっしり書き込まれていてなかなか見つけ出せない。古地図に造詣の深い永田金一さんに助けを求めると「そんな観点から調べたことは一度もなかった」と言いながら早くも翌朝「あった、あった。ちゃんとありましたよ」と電話で連絡をいただいた。 ∴三浦太次兵衛の名前は確かに載っていた。高岳院(東区)の西2本目を南北に通る富士塚町筋と東西に走る杉ノ町(魚の棚)筋の十字路から北へはいった3軒目、道路の東側に「三浦太次兵衛」の名がある。その後の地図にも同じ場所にあるが、江戸末期を描いた古地図帳『名古屋城下図』では南へ移って十字路の北東角になっている。さて問題は、この三浦家がいまのどこに当たるか、だ。古地図と現在の地図とを比べてみるのだが、今一つはっきりしない。名古屋の都心部はかつての城下をなぞるようにして造られたとはいえ、正確な場所を特定しようとなると一筋縄ではいかない。後日、永田さんと二人で現地を訪ねた。 ∴古地図と照らし合わせながら割り出したのが、現在の東区泉1丁目7番35号辺り。同地にお住まいの内海ふみさんは「子供のときからここに住んでいるが、そんな話はいっぺんも聞いたことがない。まさかこの場所に殿様(宗春)のお母さんの実家があったなんて」とキツネにつままれたような表情だった。しかし、この推理にまず間違いはない。宗春の生母はどういう縁で藩主綱誠に見初められたかは不明だが、それがもとで父親の太次兵衛は成瀬隼人正の配下に組み入れられて200石をもらい、そしてこの地に住むこととなった。マンションに変わりつつある界隈を眺めながら、短冊状に区画された中級武士たちの屋敷にしばし思いを馳せるのだった」という内容だった。博学を自認する私はここで「はた」と気がついた。この『名古屋城下図』という江戸時代の地図と現在の地図を見比べ、なんか文章が書けないかという思いが日に日に募ってきた。 ∴こんな記事も見つけた。「堀川は名古屋唯一の川。毎日多くの舟が行き交っていた。堀川は人工的に造られた川で四間道の蔵にみられるように、川岸に舟を着け荷物を積み降ろすことができ、川全体が港のような機能を持っていた。1983年に若宮大通の堀川東岸の都市高速道路の1本目の橋脚辺りの地下から立派な石積みが見つかった。昔、この付近は谷になっており、紫川という川が堀川に流れこんでいた。開削当時の堀川の護岸は素掘りだったが、この部分は立派な石積みで造られていたようだ。また、石には名古屋城と同じ模様を刻んだものもあった。このことからここは堀川の川港で、丁寧な造りなので相当重要な施設と考えられる。古地図である『名古屋城下図』を見ると、紫川の河口部近くに川幅が広がったような表示がされている。ちょうど石積みが発掘された辺りだ。南には尾張藩の水軍関係者がいた「御水主屋敷」があり、北側には御船手役所や船御番所など、藩の水軍や河川行政の中枢を担う施設が集中していた。 ∴このような周辺環境と施設の立派さから考えると、これらに関係する船が接岸や停泊するための港だったと推定される。御水主屋敷の「水主」は「かこ」と読み、水軍を始めとする藩船の運航に従事していたようだ。また、御水主屋敷は以前は堀川西岸にもあり、西水主町という町名にもなった。今でも、この名残で岩井町線と江川線が交わる所は「水主町」交差点と名づけられている。御船奉行は尾張藩水軍の責任者、現代風にいえば海軍大臣といったところでしょうか。1847年頃の記録では配下として、船軍者1名、船手改役3名、船手與力5名、大船頭8名、船頭10名、船大工3名、水主123名となっている。奉行はこれらの者を指揮し、水軍の統率や藩船の管理を行っていたようだ。 ∴また、年貢を納める前に農民が米を売るのを取り締まるために検問の船を出すように指示された記録もあるので警察的な仕事や廻船など、民間の船の取締りも行い幅広い職務を担当していたようだ。さらに、熱田の船会所や熱田船番所などを監督するとともに船頭が多く住んでいた熱田の東脇浦・大瀬子浦・須賀浦も支配した。最初は海方と川方に担当が分かれていたが1746年からは熱田奉行が御船奉行も兼務することになった。これは、白鳥にあった御船蔵や熱田の船会所などの管理は熱田奉行が兼務したほうが効率的だったからと思われる。御船奉行は主に軍事的な面を担当していたようだ。」という記事を見つけた。ここまできて私は「はた、はた」と思った。「こんな発見は無理だとしても江戸時代の面影や名残りを現代に見つける作業もあっていいじゃないか」ということ。 ∴江戸時代のことは『名古屋城下図』と場合によっては絵図である『名古屋名所図会』でも再現できるし、現在の様子は自分の足で自ら稼いで自分のデジカメでつぶさに撮ればいい。「江戸時代だったら誰にも負けないぞ」を自認する私としては着眼点のいいグッドな題材を見つけたと心が高鳴った。「名古屋街角物語りの姉妹編として、これは十分いけるぞ」と、書く前から思うところが私の私たる所以か。というのは嘘で、『名古屋街角物語り』では何を書いたらいいのか、少々荷が重くなってきたというのが本音。まぁ、私のオハコであるこっちの方から書いていけば、その内解決策も見つかるというもの。「これを読んだら名古屋の昔が判ったぞ」という声が聞こえてきたら儲けもん。注目の第1回は『納屋橋』にまつわる昔話の数々『橋のある風景』。乞うご期待。 ![]() by tomhana193 | 2005-12-19 15:20
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人生の御負け
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