日本の国歌である「君が代」の由来にはこんな話が伝わっている。 明治2年の暮れ、横浜の外国人居留地の警備にあたっていたイギリスの歩兵隊の軍楽隊に 日本にも同じような軍楽隊を作るために若い薩摩藩土達が学んでいた。 そんな時、何を思ったかイギリス軍楽隊長フェントンは日本に国歌がないことを知って、 誰にも相談することなく国歌を決めその歌詞に合った楽曲を作曲をしようと言いだした。 薩摩の練習生達はこのことを薩摩砲兵大隊長の大山巌に伝え、 大山は野津鎮雄らと相談するうちに幼少のころから愛唱していた薩摩琵琶歌 「蓬莱山」の文句の中から「君が代は…」の部分を取り出して彼に伝えたのだといわれている。 薩摩琵琶は戦国時代から伝わる藩のいわはお家芸だった。蓬莱山は「日出度みやな、 君が恵は久方の、光の長閑(どけき)春の日に」と唄い始める。長さは300字ほど。 縁起のいい文句を連ねた祝賀の曲だ。 この前半に「君が代は、千代に八千代に」と出でくる。ただし君が代の歌詞自体は 薩摩琵琶の専売ではない。薩摩小唄、長唄、河東節、常磐津など室町時代から 江戸時代を通して、その時々の流行りの節にのせて代々唄われてきたという。 元歌は10世紀初め、醍醐天皇の命令で紀貫之らが編集した最古の勅撰和歌集 『古今和歌集』の巻7、賀歌のトップにある読人しらずの「わが君は千代に八千代に 細れ石のいはほとなりて苔のむすまで」である。 古今集では「わが君は」だったのが和漢朗詠集で「君が代は」に変わる。 君は相手への敬語、代は齢を指したという。縁談がまとまった、家を新築した、 病気が治ったなど、お祝いの席に専門の芸人が呼ばれ、あるいは誰か達者な者が 流行りの節で「君が代は」と唄ったのだろう。一座の中央にいて、 みんなから祝ってもらっている当日の主人公がそもそも「君」だったはずだ。 しかし、時の政府である明治政府がいつしか「君が代」の君は天皇を 意味すると言い出した。これって本来の伝統からの逸脱ではないか。 子供の頃ここを駆け回っていたという。 ということは彼女はここの氏子ということになる。 (北区別小江神社) そんな百度石だった。広い境内にポツンと立っていた。 (北区白山神社) 「山門をくぐったら酒を飲んではいけないよ」 多分そんな意味のことが書いてあるんじゃないかな。 (北区修善禅寺) 大須にあった頃は知らないがここは最低の趣きだった。 (千種区善篤寺) 「臭う野菜(ネギ・ニラなど)と酒は山門に入るを許さず」という意味だった。 (北区清学寺) 北面には「南 京いせ七里の渡し 是より北あつた御本社弐丁」という道標。 (熱田区旧東海道と旧美濃街道の交差点) 歴史的な遺物がポツンと交差点の隅に立っていたがこれでいいのだろうか。 (中区金山新橋交差点)
by TOMHANA193
| 2010-03-02 11:10
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人生の御負け
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