GOB備忘録:17

ライブと私の備忘録[7]

前回は研チャンの歌うブルースの話で終わったはずだが、
あの入院騒ぎ手術騒ぎで何やかや間が空いてしまった。ということで今回は
我がバンドGOBで一番若い(と言ってもオントシ47歳、もうしっかりオジサンだ)Y君の歌う
ブルースの話をしよう。といっても最初はこんな話から、Y君は今のGOBのメンバーの中では
一番アトからメンバーになった。いつだったかもう忘れたが何回目かのGOB
(その時のメンバーはドラムもベースもキーボードまでいて、さらに女性ボーカルもいての
総勢10人だった)解散後、雄サンと研チャンと私(ということはGOBで歳の多い順に3人)で
ドラムもベースもいないアコスティックなサウンドのそれこそ大人のグループで
再起しようと思った。そうしてあくまでアコスティックに固執してライブをこなしていった。
がしかし、いくらアコスティックだからといってリードギター(それまでは福チャンが
一手に引き受けていた)までいないとなると、サウンドに緊張感がなくなって
単なるオジサン達の音楽同好会的色彩が顕著に現れてきた。
そんな時、ひとり私は「これではライブチャージも貰えんぞ」と頭を抱えていた。

それから暫くして、問題解決のためにそれまでも時々ライブの手助けをしてくれていた
Y君のことを思い出していた。しかし、積極的には勧誘しなかったというかできなかった。
というのもその頃のY君は既にバレーボールズという
名古屋ではちょっとは知られたR&Bバンドのメンバーだったし、同時に幾つものバンドや
誰かのバックアップメンバーとして引っ張りダコの状態だった。
いくら知り合い(と言っても主に私が彼の勤め先である新栄のバー『オーティス』の
客だと言うぐらいのもの)だからと言っても、その上「我がGOBに来てくれないか」とは
言い辛かった。それでも結局は誘ったんだが、始めの1年ぐらいはバンドのあくまで
ゲストメンバーという立場で毎回彼のスケジュールを聞いては「ヤレそうだったら、
曲合わせに顔を出してくれない」といういかにも1歩も2歩も引いた勧誘だった。
そんな気配りが気に入ったかどうかは定かではないがY君は率先してライブに参加してくれた。
こうイッチャア何だが、オジサンバンドの音が飛躍的によくなったのは言うまでもない。

それにY君にとってもGOBでヤルのはある種、息抜きというか心地よい刺激が
あったんじゃないかな。それと言うのもその頃のGOBのレパートリーといったら
ブルースはもちろんジャズ系のスタンダード、R&B、フォーク、カントリー、
シンガーソングライター系と千差万別何でも御ざれ「何か掴みどころのないバンドだな」と
言われていた(ワタシ的には全然違和感はなかったのだが)。
そんな中にあってサウンド的にはY君が一度も経験したことないような3拍子の曲や
ワンコードの曲、はたまたそれまで一度も聞いたことのないような曲が
新鮮だったんじゃないのかな。それと自分で言うのも何だが、どこへ出しても
恥ずかしくないボーカル(研チャンと私)とコードワークの新鮮なアコスティックギター
(もちろん雄サンのこと)がいたから積極的に参加してくれたんだと今ではそう思っている。
そんな訳で1年後にはゲストという肩書きも取れ、正式メンバーとしてなくてはならない
リードギタリスト(ワタシ的には彼のカッティングもそれ以上に好きだったんだが)になっていた。

こうして我がGOBに入ったその日から「Y君、ギターはもちろん歌も歌って貰わないと
ダメなんだけどなぁ」と釘を刺すのを忘れなかった。そんな訳でY君には1回のライブに
3曲(初めの内は2曲。Yクンの決めた曲のだいたい2曲がブルースで1曲は
サム・クックとかレイ・チャールズといった古いR&Bだった)のノルマを課した。
その頃はライブの日取りが決まると1回だけ(だいたいチョッキンの土曜日の午後)
私の事務所に練習というかライブの曲合わせのために集まっていた。
曲合わせもだいたい済んだ頃、いつものように「ところで今度のライブには
どういう曲をやるのかな?」とチェックを入れると、決まって「そうだな1曲目は
Gのスローブルースにしようかな。2回歌って間奏は初めブレイク、後は流して…」と
言うように曲目の紹介はまったくなく、いきなり曲の構成というかライブでの注意点を
しゃべり出して「それじゃぁやってみようか」と言うなりギターを弾き始めていた。
心配御無用、GOBくらいになると曲合わせの要点は隅から隅までお見通しだったのだ。

ポイント1:前奏の入り方(頭から流すのか、それともケツから入るのか、
いきなり歌から始めるのか)を決める。ポイント2:間奏はどうするのか(始めブレイクで後は
普通に流すのか、それとも初めから流すのか、ギターからかハープからか)を決める。
ポイント3:エンディングの仕方(リフが入るのか入らないのか、ブレイクを入れるのか
入れないのか)を決める。それに全体のリズムと曲の構成があれば完璧、という訳だ。
やっとここで最初からのブルースの話に戻って、Y君が一番好きなブルースマンは
マジック・サムという人(私も雄サンも名前だけは知っていたものの聞いたのは
Y君の歌が初めてだった)。私が持っている楽譜だけでもY君の歌うマジックの曲は3曲
(8ビートの「You belong to me」「Just a little bit」「That's all I need」
スローの「I need so bad」)ある。余談だがY君はライブの時、歌詞カードを見なくても
歌えるというライブには打ってつけの特技がある。ここで簡単にY君の愛した
マジック・サムのことを書いておくことにする。→マジック・サムの「I need so bad」

1967年、彼のデビュー・アルバム「West Side Soul」が発売された。
シカゴブルースの伝統を受け継ぎながら一歩進んだカラッとしたブルースを目指した
そのアルバムはいきなり名盤との評価を受けた。全ての曲がカバーにも関わらず
そこまで評価されたのは、それだけ彼の演奏に何か目新しさがあってのことなのだろう。
こうして彼の名はやっとシカゴの街以外にも知られるようになった。
やっと芽が出かかった彼だったがその生活は悲惨そのものだった。
彼の妻と子供たちは生活保護によってかろうじて暮らしており、彼自身も明らかに栄養失調。
そのうえアルコールの量も半端ではなかったようで、これらの不摂生が心臓病による
早すぎる死の原因となったのは間違いない。1968年、彼は2作目のアルバム
「Black Magic」を録音。このアルバムは1969年になってようやく発売されたが
結局これが彼のラスト・アルバムとなった。1969年、彼は生まれて初めての
そして最後となった1万人以上もの観衆を前にしたライブを経験する。
→「Black Magic」の収録曲「You Belong to Me」

それが後にライブアルバムとして発売されることになった
第1回アン・アーバー・ブルースフェスティバルでの衝撃的なライブだった。
このコンサートの直前、彼は栄養失調と疲労そして心臓病が原因で倒れてしまった。
しかし、そういう状態にも拘わらずやっと掴みかけたチャンスでもあり、
ミュージシャンにとって夢のようなコンサートへの出演依頼は結局、
彼に命がけの演奏をさせることになった。こうして彼はこの晴れの舞台で一世一代の
パフォーマンスを展開することになった。ドラム、ベース、ギターという
わずか3人のバンドが繰り広げるファンキーかつパワフルなブルースとブギの世界は
聞く者誰もが驚く衝撃的なものだった。多くのブルースファンの間でマジック・サムが
伝説として語り継がれるようになったのはこのライブが切っ掛けだった。
伝説のライブを終えたサムはまるでそこで燃え尽きたかのように、
その年の12月に心臓病の悪化によってわずか32年の生涯を終えた。
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写真1:ちょっと前のY君のライブ風景。
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by TOMHANA193 | 2010-03-02 13:01


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